ふるさと・入広瀬村

私が生まれた新潟県北魚沼郡入広瀬村大白川(現在の魚沼市大白川)は、福島県との県境の山あいの村である。

 豪雪地帯で、11月頃から降りだす雪が消えるのは5月になってからであった。 

 私が、彼の地で過ごしたのは、生まれた昭和23年から高校を卒業する42年までの18年間である。 

 我が家では、かなり離れた里山などにある田んぼで稲作を行い、庭先には、自給自足のためせんざいもん(前栽物)を植えていた。近くのかわら(河川敷)や里山では入会権的?に畑を耕し、野菜やスイカ、梨瓜(メロン)、苺などの果物を作っいた。

 野山では、ぜんまい、わらび、ウド、うるい、ミズナ、トリノアシなどの山菜や、なめこ、キクラゲ、アマンダレ、スギタケ、トッピタケ(舞茸の仲間)などが採れた。 

 鉄砲ぶち(マタギ)は、野ウサギや山ドリ、時にはクマを捕っていた。父は猟はしなかったが、お裾分けを食べた記憶がある。

 ニワトリを飼っていて、近所の田んぼでとったドジョウを餌にやるとよく卵を産んだ。

 飼っているニワトリやウサギは、今考えると可哀そうで食べられないが、美味しかった。

 

 父は仕事の帰り、アケビやすもも(プラム)、栗、山梨、山ブドウ、ときにはミツバチの巣を取ってきてくれた。

 

 父は炭焼きをするかたわら、夏は土方、冬は鉄道の除雪で稼ぎ、米やぜんまい、キクラゲ等の山菜を売ったりしていた。蚕棚が家中を占領する時期もあった。羊を飼い羊毛を売る家、山羊を飼い乳を宅配している家もあった。 

 稲刈りが終わると家の中に米俵積んでいた。ネズミが床下から板をガリガリかじっていた。親戚の「ようれ」という屋号の家が水車で精米をやっていて、母と一緒に行った記憶がある。 

 秋になると、村落共用の器械を借り味噌づくりをした。どこの家に行っても味噌玉が家の中にぶら下っていた。芋棚穴(囲炉裏の近くの床下)にはもみ殻を入れ、サツマイモを貯蔵していた。白菜は新聞紙にくるんで居間の棚に貯蔵していた。

 雪が近くなると、庭に藁を敷き、大根を雪中貯蔵していた。風呂桶ほどもある大きな樽に野沢菜を漬け込み、また、味噌樽には大根やナス、蕪を漬け込んだ。岩魚は粕漬けにした。(我が家は釣りをしなかったので、ロウソクホッケという魚で代用していた)。佃煮のりを大きな缶入りで購入していた。身欠きにしん、かずのこ、ほっけをよく食べた記憶がある。今のように高くはなかったのだと思う。

 燃料は、柴木を山からとってきて、きにょに積み上げていた。付け木に杉っ葉を拾ってくるのは子どもの仕事だった。冬は一面に雪が降り積もるので窓等に冬囲い(雪囲い)をする。

 

 朝晩に、玄関先や窓の雪払いや、かっちき(かんじき)を履いて隣の家との境まで道踏みをする。屋根の雪おろしをすると家の中が真っ暗になり、窓の外の雪を払って明りとりを作った。 

 多いときは一晩で1メートル以上も積り、屋根が「地面」より低くなり、電線が雪に埋もれてしまうこともあった。父は朝早くから屋根に登り、背丈より高い雪をコシキ(木で作ったスコップ様のもの)で豆腐のように切り投げおろす。私などは、ほんの少し手伝っただけでこなごなになった(くたくたになった)。 

 投げ下ろせるうちはまだいいが、そのうち家のまわりが雪で一杯になり、隣家との間には雪の山が出来た。幸い我が家は西側が崖になっていたので、そこに板樋を使って雪を流し落とした。大概の家では家の周囲に水を張って少しでも溶けるよう工夫していた。  

 夜は津々と雪が降る。寝ているとき吹雪が顔の上に落ちてきたこともあった。厳冬期には水道は凍って出なくなる。やかんに雪を入れそのお湯を水道管にかけて溶かすが、それでも溶けないこともあった。通学中、猛吹雪で息もできないくらいになり立ち往生することもあった。 

 

 元旦には、「年とり」と言って、父がお膳の上に鏡餅などをのせ、子どもの頭の上にのせる。これで一つ年をとるのだという。十二日は山の神様の祭り、鎮守様に父と一緒に弓と矢を供えに行った。十三日には米俵などの形のお団子を作って木の枝につけ、豊作 を願う。「あんにゃほうらい?」と囃しながら、「鳥追い」に各家をに回るとB5サイズくらいの大きなのし餅を「御苦労だねや」と言いながらくれた。十五日には松飾りなどを持ち寄って歳の神 (さいのかみ)を祀り火をかけて焼く。

 

 春は陽光とともにやって来る。屋根からはポタポタとしずくがしたたり、雪解けの蒸気を含んだ、涼しく、少しあたたかい、土のかおりのする風がほほをなで、雪の下には雪洞ができ、ふうきんとう(フキノトウ)が光ってる。やがて、つくしが芽を出し、スギナが生える。たっぽ(田んぼ)の雪に灰や土を撒く。田の代かきが始まる。山にはこぶしの花が咲く。春は心がときめく。

 

 田植えは家族総出で行った。学校も農繁期休暇で、僕の仕事は苗配りだった。適当な場所に、苗を放り投げておく。田植えが終わると朴の葉の包んだアンコが食べられた。

 

 夏、子どもたちは破間川の淵で水浴びをした。めんぱ(水中メガネ)とやすを使い、岩魚やはよ(はや)釣りをし、遊んだ。大白川の夏は涼しい。

 

 野山でたべるおやつは桑イチゴ(桑の実)、蕗の葉に入れてジュースにして飲んだ。口のまわりが紫になる。ヤマツツジのはなびらも食べたことがある。ススキの初穂をガムとして噛んだこともある。山百合の花の蜜もおいしかった。

 

 冬は雪合戦などをして遊ぶ。春近くなると、晴れた朝は雪が凍(し)み、そこをそりで滑って遊ぶ。スキーは、小学生のころは村にあった材木屋さん(「いんきょいもち」と言った)から作ってもらった。長靴で滑る「パッタ」である。(中学になってから「カンダハ」に進化し、いまのような金具になったのは高校になってからだった)